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石崎時計店 第12号
このページでは、各国の時計や本校ウォッチコースの情報を紹介しています。
ウォッチメーカーコースのマイスターたち(3)  時計技術担当/ 織田幸信
ウォッチメーカーコース学科長  石崎 文夫


写真1: 時計技術担当 織田幸信氏
写真2: 授業中の織田氏
織田幸信(以下織田氏)は百戦錬磨の時計技術者だ。ほとんどの時計は直せるし、トゥールビヨン、スプリットセコンド・クロノグラフ、永久カレンダー、ミニッツ・リピーターの4大複雑機能でもお手のものだ。それにしても、一体どこでこんなに高度な技術を身につけたのだろう。

織田氏の時計技術者への道は18歳から始まる。親戚の紹介で広島市内の時計店に見習いとして入った。時計師の店主のもとで、ボンボン時計(注1)、目覚まし、懐中時計、腕時計の手ほどきを受けた。

10年ほど経験を積み、自分のうでが世間でどれほど通用するのか試したくなった織田氏は、横浜にあったシイベルヘグナー社のオメガサービスセンターの門をたたいた。そのときの試験官が、なんと宅間三千男氏(石崎時計店Vol.10参照)だ。

入社後1年間は時計のケースポリッシュの仕事をし、その後オメガ、ティソ、ヴァシュロンの修理を任された。オメガサービスセンター時代での5ヶ月にわたるスイス研修や、CMW資格(注2)取得など、精神的、技術的にも向上する機会に恵まれた時だったと織田氏は言う。

42歳でアトリエ・オダを設立後は、代理店や小売店等から様々な仕事が舞い込んできた。複雑時計のアンティークから現行品まで扱う時計は多様で、中にはさすがに応えられなかったが、全ての姿勢で5ポジションプラス・マイナス0(注3)の精度にしてくれとの修理依頼まであったそうだ。

織田氏のモットーは「来るもの拒まず、請われたら教える」である。そのモットーは、織田氏が師と仰ぐ羽立習志氏より、受け継がれたものである。オメガサービスセンターに入社できたのは良かったが、力不足を感じていた織田氏は何とか腕をあげたいと思っていた。

写真3: オメガサービスセンター時代Tisotラリーの計時を担当。右側は宅間氏
写真4: アトモスの修理法を指導する織田氏
写真5: ミニッツリピーターを修理中の織田氏




そこで頼ったのが、スイス時計のオーソリティー羽立氏であった。羽立氏は「来るもの拒まず」という姿勢なので、氏のもとには何人もの時計技術者が退社後も勉強のため通ってきていた。

織田氏はそこで、ひげの振れとり(注4)を中心に必死でトレーニングをした。電車で往復3時間をかけては羽立氏のもとに通うこと週3日、それを4年も続けたのであった。このときのトレーニングが最大の財産になっているという。その受け継いだ教えのせいか、織田氏のもとにも、卒業生がよく訪ねてくる。

織田氏と初めて握手したとき、熊のような手だと思った。大きくて厚くてゴツゴツした手だ。この熊の手で、繊細で小さなムーブメントを修理できるのかと思った。「時計師は一生勉強」という織田氏は、まさに「努力の人」だ。

注1: 明治、大正、昭和にかけて生産された掛け時計。ボーンと時を打つのでこの名がついた。
注2: アメリカ時計学会による高級時計師試験の合格者の称号。
注3: 腕時計を5つの位置(文字盤上、文字盤下、竜頭上、竜頭下、12時下)に置いて、進み、遅れがまったく無い(0)状態に調整すること。
注4: 時計の命であるヒゲゼンマイを、水平にしたり、中心をだしたりする調整技術。
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