時計のコラム
時計のコラムバックナンバー
 
石崎時計店 第23号
ウォッチメーカーコースのマイスターたち(4) 時計理論担当 / 依田和博
ウォッチメーカーコース学科長  石崎 文夫
近年、時計関係の雑誌はかなり出版されているが、本格的に時計を学ぼうとする学生にとって日本語で書かれ、教科書となる本は非常に少ない。

1969年にセイコーは世界初のクォーツ時計を発売し、それを機に日本は機械式時計から離れ、正確無比なクォーツ時計に突き進んでいく。それに合わせたかのように、国内では機械式時計に関する書籍もなくなっていった。久しく時を経て、2003年ウォッチメーカーを目指す学生たちのための教科書として3冊の本が出来上がった。WATCH THEORY -T総論(依田和博)、U脱進機・調速機(小牧昭一郎)、V外装(工藤晃嗣)の3部作である(写真1)。

今回はWATCH THEORY -T総論の著・編集の依田和博を紹介する。

依田和博(以下依田氏)が学校で担当するのは時計理論の授業であるが、以下の経歴があるからこそ、幅広い見地での理論の授業が可能になっている(写真2)。
依田氏の時計との関わりは、ほぼ依田氏の人生そのものといってもよい。
写真1 左よりWATCH THEORY−T、U、Vの教科書

写真2 時計理論の授業中、学生の解答の講評をする依田氏
依田氏の生家は時計店で小学生の時より修理受付の仕事を覚え、中学時代はいっぱしの時計職人としてクロック修理の担当をするようになっていた。 戦前、服部時計店(現 セイコー株式会社)で時計修理の仕事をしていた父親の指導によるものであった。
写真3 コンテストに時計を持ち込むため、トランクの内部を特別にあつらえてある。
1962年に慶応大学工学部を卒業し、第二精工舎(現 セイコーインスツル株式会社)に入社、時計研究課に配属される。運に恵まれるということはこういうことを言うのだろうか。

入社して1年後、スイスで行われているニューシャテル天文台クロノメーター・コンクール(注1)にセイコーも初めて時計を出品することとなり、「その責任者に」との話が舞い込んでくる。
その当時、時計の精度コンクールはオメガ、ゼニスの牙城であり、時計後進国の日本の時計が賞を得るとはだれも考えていなかった。1964年、依田氏は30数本のコンクール用の時計をスーツケースに入れ、膝に抱えて25時間南回りの飛行機でニューシャテルにたどりついた(写真3、4、5)。

このとき時計調整師として一緒だったのが野村壮八郎氏(現在ウォッチメーカーコース時計技術担当講師)である。残念ながらこのときの時計は入賞にはほど遠いものであった。依田氏は学生へ「分からないと思っても逃げずにぶつかれ、それがチャンスになる」と言うが、その言葉は自身の生活身上でもあった。

3年後の1967年、それが実を結ぶ。この年のコンクールに持ち込まれた時計数は1231個、第二精工舎は40個を出品した。このうち振動数を10振動にあげたムーブメントを搭載した時計が見事入賞を果たし、オメガについで2位となったのである(写真6)。これは時計王国であるスイスのブランド時計群を抜いての痛快事であった。また優秀な成績を残した時計調整師にも褒章が与えられ、野村氏が2位に入賞した。

諸説いろいろあるが、1968年より日本の時計の急速な追い上げをスイス勢が考慮した結果、機械式ウォッチ部門のコンクールは中止となった。そして第二精工舎も時を経ずして機械式ウォッチの生産をやめることになり、クォーツの時代に入っていく。
(注1)
スイスのニューシャテル天文台が主催する、機械時計の精度をメーカー同士が競うコンクール。45日間の測定を行い、その精度結果により順位を決めた。

写真4 1964年撮影のニューシャテル天文台。ここでクロノメーター・コンクールが行なわれた。

写真5 天文台に持ち込まれた時計を確認するコンクール審査員
写真6 ホルダー内部の「じゃがいも」の形をしたのがムーブメント。面積707平方ミリメートル以内というコンクールの規定があり、精度を上げる工夫として大きなテンプを採用したため、このような変形となった。このキャリバー#052が賞に輝く。(セイコー資料館提供)


写真7 液晶で時間と分を表示し、秒は時間と分の間の:の点滅で表した。今見ても良いデザインである。(セイコー資料館提供)

写真8 上部センターにセットされたものが腕時計。時計からデータを転送するのでなく、キーボードから住所録、電話帳などを腕時計に転送して持ち運ぶというシステム。(セイコー資料館提供)
 

次に何をやるのか。依田氏は日本で初めての液晶デジタル式腕時計の開発に取り掛かることとなる(写真7)。「セイコーには何人もの電気や半導体の専門家がいたからこそ、このようなジャンルの時計を開発できた」と多くの人は思いがちだが、当時社内にはそのような専門家などおらず、ほとんど手探り状態で研究するしかなかった。依田氏は液晶技術を海外から購入し、生産技術は社内で構築するといった形をとった。実際、第1号機は海外より買ってきたパーツを依田氏自身がはんだ付けし、回路をつくり、それを時計に組み込んで作り上げた。1973年のことであった。

セイコー時代、依田氏は時計事業部長、営業事業本部長といった管理職でも実力を発揮するが、ここではもう一点、開発面での成果を披露しよう。腕コンピューターである(写真8)。これはキーボードから時計にデータを入力して携帯するものであるが、現在はこの技術が応用され、レストランのオーダーシステムとなって活躍している。

依田氏の生活身上は上記にも述べたが、「正面からぶつかり、それをものにし、とにかく1番になろう」という気概である。時代の流れがあったかもしれないが、小学生時代より実地で学び、自身で試行錯誤して研究し、それを成果に結びつけてきた時計一筋の人であった。

07/02/20
ページの先頭へ戻る