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第101号 私の恩師、片岡球子先生

「この院展に出している人々の中には同人にもなれず、死んでいく人さえある。好きな絵を追求して命を終わる。人生それでいいじゃないか」。

この言葉は、私の小学校の先生である片岡球子先生が、その師の院展会友の中島清之先生からもらった言葉だ。もう70年近い昔の話である。

当時、院展といえば、絵を描いている人にとってはその入選を目指して命を削る思いの人ばかりだった。私の先生、球子先生も目を三角にして必死に入選を目指していたのだ。でも、この言葉をもらって球子先生は目が覚めた。すごい言葉である。
今回は、小学2年から2、3年間、私の先生だった片岡球子先生のことを書いてみようと思う。

先生は札幌に生まれ、東京の女子美術大学に入学した。卒業後札幌に戻り、結婚する相手も決まっていた。ところが、女子美の親友の一人からの「私があなた(球子先生)だったら、絵描きになるわ」というひと言で天啓を受け、結婚も断って画家になる決心をしたのだ。「家庭を持って夫を助け、子を産み育てて家を成すのも女の立派な生き方です。しかし作家となって努力し、一生それに捧げるのも立派な生き方でしょう。お前の選んだ生き方に、母は不服はありません」その時、球子先生のおかあさんが娘に宛てた手紙だ。

ところで、球子先生は落選の神様といわれるほど、院展では落ち続けていた。7度目の落選の日、会場にある上野から御徒町までとぼとぼ歩いていたが、御徒町駅付近に来たら、「この線路に飛び込んで死んでしまおう」と思ったそうだ。この時も中島清之先生に諭されて思い止まったということだ。その言葉は、「君のやり方は決して間違っていない」であった。

写真1
<写真1>





写真1
<写真2>



また、球子先生の絵はよくゲテモノと言われた。それは写真1の富士山や浮世絵師を描いた写真2の面構え(つらがまえ)を見ればうかがえる。日本画の大家、小林古径先生から、「ゲテモノをどんどん描きなさい。それがあなたです。変えてはいけません。このゲテモノの道でやりなさい」と言われたそうだ。昭和17年頃、私が3才頃のことである。

写真1
<写真3_小学2生の頃の私>

そして昭和22年、球子先生が42才の時、大岡小学校で私のクラスを担当し、先生1人で5年生までの間教えてもらった。写真3(拡大してご覧ください)は、私が小学校2年生の頃だ。この校庭はもちろん今も存在し、グーグルで見れば航空写真ですぐにわかる。

私は、左の眼鏡をかけた先生から数えて前列に座っている子供たちの左から7人目、手に顔をあてて嫌そうな顔をしている。恐らく右端に写っているのが球子先生だ。

写真1
<写真4_小学校5年生の頃の私>

写真4は小学校5年の時で、日光東照宮へ遠足に行ったときの写真だ。最前列右端にで写っているのが球子先生で、私は最後列から2段目の左から三人目の○がしてある子供だ。

どんな先生だったかと聞かれれば、当時はとても怖い先生だった。国語、算数はもとより音楽まで、球子先生自らオルガンを弾いて教えてくれた。服が汚い子がいると「臭いぞ」と言って怒っていた。 当時は、ノミ、シラミを持っているのは普通だったが、先生は女生徒の髪のシラミを椅子に座らせてとってあげていた優しい一面もあった。

さて、球子先生は晩年日本画家として芸術院会員になり、頂点を極められて100才を超えてから亡くなった。数々の作品があり、先に紹介した富士山や面構(つらがまえ)シリーズが有名だが、最後に私が教えていただいた時に描かれた写真5の「参籠(さんろう)」(1947年42才の作品)という画も紹介しておこう。

日本がアメリカに負け、価値観が180度転回した時だ。当時、球子先生は院展の無鑑査(審査を受けないで院展に自由に出せる)となっていたが、子供だった私はそんなことは全く知らず、先生のすごさを知ったのは私が大人になってからだった。

写真1
<写真5_参籠(さんろう)>



13/4/24

(写真をクリックして拡大してみてください。

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